2024年10月21日月曜日

松山城の創建と湯ノ山川の大改修

 『愛媛県 温泉郡 石井村史』より引用

加藤嘉明の伊予・湯ノ山川改修

松山城を創建した加藤嘉明は、幼少のころ孤児となり諸国を流浪したが、15歳の時に羽柴秀吉の臣加藤景泰にその才幹を認められ、その推挙によって秀吉に仕えた。嘉明は敏捷でよく秀吉の意にかない、天正10年(1582)に明智光秀の軍を山崎に破った。さらにその翌年に柴田勝家の軍と賤ヶ岳に戦い、七本槍の一人として殊功をたてた。秀吉が関白に任ぜられると、嘉明は従五位下に叙せられ、左馬助に任ぜられ、淡路の志智城(一万五千石)に封ぜられ、さらに天正15年(1587)の九州征伐、同18年(1590)の北条氏討伐等に参加し、文禄元年(1592)年におこった文禄の役には朝鮮に出陣して武名をあげた。嘉明はこの戦功によって、久米・温泉・乃万・伊予郡を領し、六万石をもって正木(松前)城に転封を命ぜられた。文禄四年(1595)年七月に嘉明は家臣を率いて志智城から正木に入場し、この地方を統括した。そして慶長元年(1596)年正木城を改修するとともに伊予川の大改修を行なった。普請奉行が足立重信であったことから、その名に因み重信川と呼ばれた。

1592 文禄元年 文禄の役
1595 文禄四年 加藤嘉明が、この文禄の役での戦功により久米・温泉・乃万・伊予郡を領地とし、正木城主となる。
1596 慶長元年 足立重信が普請奉行として正木城、伊予川の改修工事を行なう。

慶長二年(1597)に再び征韓の役がおこると、嘉明は出征して海上に、あるいは陸上に活躍し、その功によって10万石に加封された。その翌年に秀吉が病没すると、天下の情勢は次第に変化し政治上の実権は徳川家康の手中に帰した。豊臣氏の恩顧をうけた諸将のなかに紛争がおこり、石田三成らを中心とする文治派と、加藤清正らの武将派にわかれ、対立するようになった。

慶長五年(1600)に光成らは、家康の勢力を打倒するために、西国の諸大名と提携して兵をあげた。武将派の諸将はほとんど家康に応じたが、嘉明もそのうちの一人であった。かくて関ヶ原の大戦が展開され、家康の率いた東軍の大勝によって幕を閉じた。同年11月に嘉明は戦功によって、家康から20万石の大名に封ぜられた。嘉明のいた正木城は海浜に近いため、風波をうけることが多く、さらに狭隘であったから、その居城を他に移転する計画をたてた。そして勝山に城郭を築造する第一歩として、家臣足立重信の議を用い湯ノ山川(石手川)の大改修に着手した。その目的とするところは、勝山と湯ノ山川とを利用して、一つは要害に備え、一つは城下町を洪水の氾濫から救うとともに、その水を近郷の田地の灌漑に当てようとするにあったと考えられる。

改修前の湯ノ山川の流域は、いまの石手川と異なり、岩堰の付近から南に流れ、湯渡を経て持田の中央を走り、二番町に出て出淵町を通過し、吉田浜に至って海に入っていたという。重信の土木工事は湯ノ山川の岩堰付近にあった岩盤を堀さくして下流を北流させ、湯渡あたりから下流を南方に移して、その末流を伊予川(重信川)に合流させ、城下町を建設する地域を獲得しようと企てた。こうした土木事業によって城下町建設の基礎ができたが、また流域の田圃2,200町歩に灌漑することができた。


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