伊予の温泉(ゆ)
伊予国風土記 ー 日本古典文学大系『風土記』より
伊予の国の風土記に曰はく、湯の郡[1]。大穴持命[2]、見て悔い恥ぢて、宿奈毗古那命[3]を活かさまく思ほして、大分の速見の湯を、下樋より持ち来て、宿奈毗古那命を漬し浴ししかば、暫しが程に活き返りまして、穏ひしく詠めごとして、「真暫し、寝ねつるかも。」と宣りたまひて、踏み猛びましし跡処、今も湯の中の石[4]の上にあり。
[1] 湯の郡 ー ゆのこほり、愛媛県温泉郡のもとだろう
[2] 大穴持命 ー 大国主命の別名という。神世の出雲国の神。
[3] 宿奈毗古那命 ー すくなひこなのみこと。毗の入力がむずかしことがある。筆者は SKK 派なので emacs の C - x 8 ret 6bd7 で入力しここへコピーした。ついでに書いておくと、手元の岩波新漢語辞典第3版では、この毗のUnicodeが空白になっている。毘沙門天の毘の異体字と解説があり毗のUnicodeがない。ちなみに毘は、6BD8 の Unicode である。詳細はこのPDFを参照のこと。スクナヒコノミコトは、オオクニヌシノミコトと協力して国土の経営にあたったとある。くらべて身体が小いとあるから、日本に古くからいた神のことなのかどうなのか。追加すると、毗はフォントによっては表示されない。筆者は、emacs の Options - Set Default Font で HanaMinB.trf にしている。
[4] 湯の中の石 ー これは現在道後温泉本館の北側に安置されている。足跡はよくわからない。ユーチューバーがビデオカメラの横で解説しているのに出会うこともあった。湯 Tuberか。ほとんど関係ないが先祖の墓の古いものの横にこの道後の石のミニチュア版のようなものがあって石でつくられ風化してしまった花立がその脇にある。古い先祖の墓には石造りの屋根があるのだが、その屋根には石に紋章が彫られていてなにか意味がありそうだがよくわからない。
すべて、湯の貴く奇しきことは、神世の時にはあらず、今の世[5]に病に染める人々、病を癒し、身を保つ薬と為せり。
[5] 今の世 ー 風土記が記述された時代のことだろうが、令和の今、ちょうど道後温泉本館は補修工事中で現代版風土記でも世界に宣伝されている。
元号が平成になったころに聞いた話ですが、ここに記憶を再生してできるだけ忠実に書いておきます。
地元の神社の人によれば、この伊予の名門のひとつに忽那氏がいるという。この忽那さん、当時80歳前の男性から聞いた話です。
「昔こども時分に、この川の土手に沿って海岸からこのあたりまでよくじいさんに連れてきてもらったもんじゃった。」
この川というのが小野川である。この川は途中で月見橋を過ぎたあたりで石手川と合流し、さらに重信川と合流して西垣生(ハブ)町あたりで海に流れている。この垣生付近の河口の北側に現在は松山空港がある。その脇に忽那山という小さな山があり忽那城跡という遺跡が印されている。
この月見橋は、名前から月見に良い場所のように思えるが、実際、橋の上から西の方角が見渡せる。現在もあまり高い建物がない。中世、古代にはおそらく川沿いに月が沈むのを眺めるには絶好の地であったように思う。
月見橋の上を走っているのは県道16号線「松山伊予線」である。月見橋を西に伊予市に向うと重信川を渡って伊予市に入る。
「2020/3/17 追記」
天山橋バス停には,伊予鉄バスとJR四国バスが停車する.高知へと続く国道33号線が小野川を渡る橋のたもと南にある.ここに遺跡があって松山市教育委員会による立て札には次のように書いてあった.
縦渕城跡
「この城は,小野川(縦渕川)の南,高さ八メートル,東西四七メートル,南北八六メートルの丘の上にあったが,明治二一(一八八八)年,土佐街道(今の国道三三号線)がつくられたとき,取り崩された.このとき切り石垣が出てきたという....」
このあたり久米郡石井郷を河野道久が承久の乱のあと功により鎌倉よりもらって家督を継ぎ,縦渕城を築いたと書いてあった.河野氏はやがて勢いを増し道盛の代になって道後に湯築城を築くことになるが,この天山橋のあたりに城を築いたのが承久の乱(一二二一年)の後だということになる.
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