2020年10月2日金曜日

小倉金之助「開港のころの洋算」

 漠然と「開港」というイメージを思い浮べながら読むと、知らないことがたくさんある。

中国が開港したのは1842年(天保13年) 、阿片戦争の結果

アメリカの使節ペリーが浦賀に来航したのが1853年(嘉永6年)

長崎海軍伝習所が1855年(安政2年)に開設

オランダ人から数学を学ぶ

この伝習生のなかには、勝麟太郎などと小野友五郎などという人たちがいた。

このうちの小野友五郎が40年後に当時の思い出を語っている。そのなかに微積分までやったというくだりがある。

「支那人の作った『代微積』という書物があります。そこで手前などが稽古して、蘭人から受けたところの言葉で申すと、其の代数といふものは、ホーベル・アルゲブラと申す。手前の習ひましたのは、ホーベル・アルゲブラ、それからヂヘレンシャーレ・アルゲブラが微分、インテフラールが積分でございます。」

中国の数学書には相当程度の高い本があった。1842年に開国していらいイギリスの相当優秀な宣教師が中国の有力な数学者と協力した成果だった。

1859 『代数学』

1859『代微積拾級』

1859『微積溯源』など

小倉によれば、これらが日本語で出版されるようになったのは、明治十四五年頃からだと言う。

そうだったのか、と開港のあとのことを中国、日本について知った。 

さらに小倉は、数学で使う基礎的な述語の訳について書いている。

大部分は、中国から伝わったもので。最も古いのは幾何で1607年から使われている。

しかし、代数、函数、微分積分などは、1853年の『数学啓蒙』の序文にはじめて出てきたということであった。

高杉晋作は1862年(文久二年)に、中牟田倉之助、五代友厚らと上海へ渡り、中牟田の日記によれば高杉はこの『数学啓蒙』と『代数学』などを買い、中牟田はそれにくわえて『代微積拾級』のほかに科学書を買い入れたそうである

 

 

 

 

 

 

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